2009年05月17日

ミス・ミステリーレディ

グレタ・ガルボ・・・近寄り難い美貌を持つ、ミス・ミステリーレディ。


本名:グレタ・ロヴィッサ・グスタフソン

1905年9月18日生まれ


スウェーデン・ストックホルム出身。病気の父に代わり、早くから理髪店やデパートの売り子として働く。後にモデルやCMに出演したのがきっかけとなり、端役で映画デビュー。モーリス・スティルレルに見出され、このスウェーデンの名監督とともにハリウッドへ。英語が苦手なこともあり、映画会社M・G・Mは起用を渋ったが、スティルレル監督の強い要望で正式入社を果たす。芸名を定番のダブルネーム『グレタ・ガルボ(GG)』とし、エキゾチックな魅力を武器に売り出された。


◆代表作品◆
『イバニエスの激流』
『肉体と悪魔』
『アンナ・クリスティ』
『グランド・ホテル』
『ニノチカ』








『イバニエスの激流('26・米)』で、いきなりスターに。この頃周囲は、彼女がこれほどまでに偉大な女優になるとは予想もしていなかったと言う。
その後、『肉体と悪魔('27・米)』での神秘的な悪女や、『アンナ・クリスティ('30・米)』の酒びたりの女など、硬質な色気を持ち味とした役どころを得意とした。















M・G・Mの権力者、ルイス・B・メイヤーによるガルボ評は、『歯並びが悪く、脚が太い』。これを当の本人はどんな気持ちで受け止めたのだろう。
アメリカの美容スペシャリストたちの手によってダイヤモンドの如く磨き抜かれたガルボ。そのクールで魅惑的なキャラクターは、いわば“創り上げられた美”であった。














日本でも『ガルボ帝国』なる言葉を生むほどの人気ぶり。その美貌は、『スウェーデンのスフィンクス』と称された。
神秘的で近寄り難い美しさがウリの彼女だが、実はメイクも毛皮もドレスも香水もダイヤも苦手で、『少年たちとのキャッチボールと、アイスクリームのコーンをかじる時が最も楽しい』と笑って答えるナチュラルな女性だった。


















多くの男性と浮名を流すも、生涯独身を通したガルボ。その私生活は、謎に包まれていた。
そして36歳、突然の引退。
その後もショービジネス界から数々の申し出があったが、一切顔を出すことなく、1990年、肝不全でこの世を去った。

  


Posted by つきピン at 15:19女優

2009年05月14日

レッドヘアのセックスシンボル


リタ・ヘイワース・・・1940~50年代にかけて、世界中の男性を魅了したセックスシンボル。


本名:マルガリータ・カーメン・キャンシノ

1918年10月17日生まれ


父はラテン・ダンサー、母はショーガールというダンサー一家に生まれる。幼い頃から父にダンスの手ほどきを受け、12歳で父のパートナーとしてキャバレーの舞台に立つ。彼女の踊りを見たフォックス社の副社長が、出演契約の話を持ちかけ、1935年にリタ・キャンシノの芸名で映画デビュー。その後、リタ・ヘイワースに改名し、コロンビアの看板女優として情熱的な美貌と抜群のスタイル、得意の歌とダンスで人気を博す。


◆代表作品◆
『いちごブロンド』
『カバーガール』
『ギルダ』
『上海から来た女』




彼女のフィルモグラフィーの中でも最高のヒット作となったフィルムノワール、『ギルダ('46・米)』。この映画で見せた妖艶な魅力は、ファンのみならず、多くの名優や大富豪をも骨抜きにした。

これほど完璧な美しさを持つ彼女だが、『男たちはギルダと寝て、私と目覚める』という、冷静すぎるほど自身を客観視したセリフを残しているのには驚きだ。










5度の結婚・離婚歴を持つ彼女が2番目に夫に選んだのは、舞台演出、映画監督としても多大な才能を発揮した名優、オーソン・ウェルズ。天才と謳われたウェルズ、美人女優のリタはお似合いのカップルだったが、4年後に終止符が打たれた。













映画『踊る結婚式('41・米)』でのワンシーン。名ダンサー、フレッド・アステアとも互角に渡り合えるダンスの才能を持つリタ。一緒に踊る相手に厳しい要求を課す事で知られるアステアの期待に、見事に応えている。

二人は'45年にも、『今宵よ永遠に』で再び共演。
















第二次大戦時、リタはピンナップガールとしてアメリカ兵たちの人気を獲得。彼女の存在によって、兵士たちの士気がかなり上昇したという。

B29爆撃機“エノラゲイ”や、ビキニ島で実験に用いられた原子爆弾(その名も『ギルダ』)の内部には、彼女の写真が貼られていた。

(※右の写真は、『ショーシャンクの空に』でも使用されたポスター)  


Posted by つきピン at 20:30女優

2008年08月26日

元祖“クールビューティー”




グレース・ケリー・・・アメリカが最も誇る、元祖“クールビューティー”。


本名: グレース・パトリシア・ケリー

1929年11月12日生まれ


フィラデルフィアの上流家庭で育ち、 幼い頃から英才教育を受けるも、女優になる夢が捨てられず、高校卒業と同時に、父の反対を押し切って単身ニューヨークへ。
モデルやTV出演などの仕事で生活費を稼ぎながら演技を学び、20歳でブロードウェイデビューを果たす。舞台女優志望だったが、その後、20世紀フォックスと契約。映画女優への道を歩む。


◆代表作品◆
『真昼の決闘』
『裏窓』
『喝采』
『ダイヤルMを廻せ』


代表作『喝采』では、アカデミー主演女優賞を受賞。
 
同じく受賞者のマーロン・ブランドと。

授賞式でのケリーは、アイス・ブルーのサテンドレスに、アップでまとめた髪には、本物のバラの花。

実は式の直前、髪の毛のカールがとれてしまったため、スタイリストが慌ててバラのつぼみをあしらったのだが、これが大評判を呼び、その年、アメリカ女性の間で、最もマネされるファッションとなった。



 







こんなに完璧な美貌の持ち主であるケリーだが、子供の頃はぽっちゃりした体型でド近眼。いつもメガネをかけていた。
勉学に関しても、兄弟の中では出来が悪く、常にコンプレックスに悩まされていたという。
















 




たった11本の出演作を残し、1956年、モナコ公国のレーニエ大公と結婚。

王妃となった後も、女優であり続けることを望んだが、大公の反対もあり、映画界から引退。

一男二女をもうけ、公務に専念する。
















妊娠中のふくらんだお腹を隠すために使用したことから、その名が付けられたエルメスの「ケリーバッグ」。

現在では、世界中にファンを持つ人気商品に。













愛犬を抱きかかえながら、脚本をチェックする(?)若き日のケリー。

この頃はまだ、自分が王妃になる日が来ることなど、想像もしていなかっただろう。



彼女は1982年9月13日、娘とのドライブ中にカーブを曲がり損ねて崖から転落。翌日、脳内出血が原因で帰らぬ人となる。
  


Posted by つきピン at 20:45女優